なぎさ海道

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vol.7
2017.03.31
新しい大阪湾づくり

堺のアナゴ文化を未来につなぐ

第7回 出島のアナゴ屋に聞く


取材・文/赤坂志乃

大阪の食文化に貢献してきた「焼きアナゴ」。かつては大阪湾で獲れたアナゴが使われていましたが、今は韓国産アナゴが主流になっています。

なにわ名物「箱ずし(大阪ずし)」といえば、焼きアナゴ。アナゴは、タイやハモとならんで大阪の食文化になくてはならない魚です。大阪湾ではかつてアナゴの延縄漁が盛んに行われ、なかでも堺近海のアナゴは「下関のフグ、堺のアナゴ」と称されるほど有名でした。戦前、堺の出島にはアナゴを専門に扱う加工業者が数多くあり、「穴子屋筋」と呼ばれていました。そんな出島の歴史をひもとき、堺をアナゴで盛り上げようという取り組みが始まっています。

出島の「穴子屋筋」をたどる



旧暦の大晦日にアナゴ屋「深清」の前で海水を分けてもらう地元の人たち。漁師町から住宅街に変貌した出島町ですが、旧正月に海水を神棚にお供えする習わしが今も残っています。





明治から続くアナゴ屋「深清」の3代目、深井清治さん(1932年生まれ)。約60年にわたってアナゴ屋を切り盛りし、戦前戦後の出島の移り変わりを見つめてきました。

「あなごの美味いのは、堺近海が有名だ。東京のはいいといっても、関西ものに較べて調子が違う。焼くには堺近海のがよく…」(「魯山人の食卓」)。
美食家で知られる芸術家の北大路魯山人は、堺のアナゴについてそうエッセイに書いています。

かつてアナゴ漁で知られていたのが堺の出島。現在の堺区出島町1丁あたりは穴子屋筋と呼ばれ、焼きアナゴを専門に売る店が軒を連ねていたといいます。どのあたりにあったのでしょうか。

南海本線湊駅から東に少し歩いて、出島町1丁へ。土居川沿いの御陵通りに面して、「穴子ずし」で有名な「深清鮓」があります。その裏手、細い路地に入ったあたりで古くから住む人にアナゴ屋が並んでいた通りを尋ねると、御陵通りから1本南の路地とその道に交差する南北20mほどのレンガ道が穴子屋筋と呼ばれていたことがわかりました。

明治時代から続くアナゴ屋「深清」の3代目、深井清治さんは、「戦前は、土居川沿いを含めて、出島町1丁界わいに10数軒のアナゴ屋があったのを覚えています」と、話します。
上島幸子氏が行った「大阪湾漁労者の昭和初期における食生活の調査」の中に、1931(昭和6)年にアナゴ屋に嫁いだ深井さんの母親、縫子さんへの聞き取りが記録されていました。当時、アナゴは出島の浜で漁師から買って「どまるかご」に入れ、浜の船にくくりつけて海水で生かしておき、必要な量だけ店に運んで、夜中から調理をしていました。店でさばくアナゴは1日に20~30貫(1貫=3.75㎏)。生きているアナゴの目を刺して、ウナギと同じように腹開きにして串に刺し、炭火でつけ焼きに。それを箱に詰めて、天満・木津・靭の市場や得意先の料理屋に卸していたといいます。

深井清治さんが家のアナゴ屋で働き始めたのは、戦後、出島のアナゴ漁が復活した16歳頃のこと。 「このあたりは漁師町で、縄船(延縄漁船)でアナゴを専門に獲る漁師がいました。夏場は打瀬の底引き網もやっていました。出島から天保山にかけてのアナゴは上(かみ)のアナゴといってよう肥えたええアナゴでした。ここから岸和田にかけては下(しも)のアナゴといって、砂地が多いのであまりええことなかった。我々は上のアナゴ、下のアナゴと分けて買っていました。最盛期には従業員と家族合わせて15人ぐらいでアナゴをさばき、てんてこ舞いの忙しさでした」と、深井さんは振り返ります。




アナゴを開くには専門的な技術が必要。アナゴは水揚げ後、アナゴ屋で加工され流通してきました。

出島がアナゴのメッカになった理由

堺のアナゴはなぜ知られるようになったのでしょうか。
出島の歴史をひもとくと、遣唐使の島として知られる広島県蒲刈島から朝臣大伴氏の一族が追われて茅ノ浦名越ケ丘(現在の宿院住吉神社御旅所付近)に移住し、漁業を始めたのが出島漁民のルーツといわれます。自然に浜地が西へ延びるとともに漁業も発達し、出島のベースが形成されました。1897(明治30)年に南海電鉄の堺駅~佐野駅間が開業。湊駅の敷設をきかっけに漁民はその周辺に移動し、浜に漁港を造りました。1924(大正15)年に漁港の口をふさぐ形で国道26号線が敷設されたため、国道の西側に移築されたのが出島旧漁港です。

大阪湾では、明治・大正から昭和にかけてアナゴの延縄漁が活発に行われていました。延縄の鑑札を持っていたのは、天保山と堺(出島)、岸和田の漁業者のみ。特に堺の延縄漁船は有名で、和歌山県方面まで出漁していました。多い時には約40隻の延縄漁船が操業していたといいます。大和川が流れ込む堺近海は豊かなアナゴの漁場でした。

出島がアナゴでにぎわったもう一つの理由が、アナゴの加工業にあります。アナゴは近世以来、堺の出島や大浜の水揚げ地の周辺、大阪市内の漁村で焼き加工して、雑喉場に持ち込まれ、料理屋やすし屋に毎日必要なだけ納める商習慣がありました。大阪や堺、岸和田など各地で漁獲されたアナゴは、出島や大阪市内の旧天保町で水揚げされ、「開き」や焼きアナゴに加工されて、市場に流通していました。アナゴの取引が独特だったのは、さばく手間と専門的な加工技術を要し、焼きアナゴが大阪の食文化に欠かせない食材だったから。大阪湾のアナゴが集まる出島には、自ずとアナゴを加工するアナゴ屋が集まり、その技術によって堺のアナゴは広く流通し知られるようになったのです。

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