なぎさ海道

大阪湾・播磨灘・紀伊水道 人と海がふれあう空間

特集

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vol.3
2015.3.27





手間をかけて
“マダイの旨み”を運ぶ知恵
瀬戸内海で漁獲されたマダイの旨みや歯ごたえを、最良の状態で大阪の台所に届ける方法は、秀吉の時代から継承され、1965年(昭和40年)頃まで続いていました。

“〆もの”といわれるタイ、スズキ、ヒラメ、ハモなどの白身魚は、漁獲後産地で少なくても2~3日、エサのない生簀(いけす)で活込み(いけこみ)、体内にある摂取物や余分な脂肪を消化させます。その後、「生魚船(なません)」という、船腹自体が生簀になっている活魚運搬船で魚を泳がせながら輸送しました。この生簀は「生間(いけま)」と呼ばれ、船が進行するにつれ、通水孔から常に新しい海水が還流する仕組みになっています。

こうして船で5~6日かけて魚を運び、大阪の安治川河口に近づくと、生間に栓をして川水の侵入を防ぎます。
魚は深夜、乗組員たちの手で一尾ずつ活け〆にされ、早朝、雑喉場魚市場に運ばれて、セリにかけられ、仲買業者から小売業者、買出業者に販売され、お客さんの口に入る時間がちょうど食べ頃になるというわけです。

これが、大阪の昔からの生魚輸送と生魚食材の調理前の処理方法です。
大阪の魚食文化はこうした目に見えない所での処理や、地理環境の中で育まれてきました。
「エサ止め、活込み」の方法は、近年、急速に拡大している海水養殖魚の自動車輸送の際にもしっかり応用されています。


食道楽を支えてきた
“雑喉場”の歴史
手間をかけて漁場から運ばれてきた活魚を人々の食卓に届けるには、市場の役割が欠かせません。大阪の魚市場の変遷を見てみましょう。

秀吉の時代になって大阪の海魚商人たちは、桃山時代から続いてきた天満魚屋町(現在の北区天神西町)の市場から、開発が進む船場の靭町(うつぼまち)・天満町(現在の中央区伏見町1・2丁目)に移住しました。

しかし秀吉(夏の陣)敗北後、その復興のために隣接する東横堀川が混雑して活魚が届かなくなったため、1618年、生魚商17軒が上魚屋町(現在の中央区安土町)に移住しました。

ところが、ここも大阪湾口から距離があって漁船の出入りも不便だったこともあり、漁船の行き来のあった京町堀川下流の鷺島(現在の西区京町堀3丁目)に出店する生魚商が増えてきました。いわゆる雑喉類を販売する場所になっていった鷺島は、「雑喉場(ざこば)」と呼ばれるようになりました。大阪の二大航路、安治川と木津川の分流点である川口にも近く、魚荷の輸送に便利な雑喉場の浜は、いつしか魚市場として栄えるようになったのです。船上で活け〆されたマダイが大阪に真っ先に届いたのも、この「雑喉場魚市場」の浜でした。

1931年に大阪市は、市民の台所として水産物と青果、乾物、漬物を総合的に扱う「大阪市中央卸売市場本場(福島区野田)」を開設しました。「雑喉場魚市場」はいわばその前身、大阪の魚食文化を語るに欠かせない、大阪の主たる魚市場だったのです。

現在の大阪市中央卸売市場本場の水産売場鮮魚コーナーは、大阪沿岸で捕れるタイ、ハモ、タコ、フグなどのいわゆる「〆もの」、氷で一気に締めるイワシ、アジ、サバなどの「回遊魚」、マグロなどの低温で届く魚などというように、食材の処理状態によってセリ場が分かれています。見学をしてみると、当時の雑喉場の風景が蘇ってくるかもしれませんね。



浪花百景「雑喉場」
協力:大阪府立中之島図書館




“食道楽”といえば
やっぱり寿司
大阪の魚食文化、締めくくりは「寿司」の話題です。 古くから伝承されてきた甘味の効いた寿司飯でつくる箱寿司や混ぜ寿司、太巻き寿司などは、京阪の寿司文化の象徴ともいえるでしょう。

古くは平安時代末に、源義経が平氏追討のために西国へ向かう際に、大物浦(尼崎市)でエブナ寿司を漁民から差し出され、そのおいしさに漁民を褒めたという話があります。

神崎川(淀川の支流)の河口で捕れたエブナ(ボラの幼魚)を、塩と酢で締めて、その腹にすし飯を詰めた寿司でした。エブナ寿司は、勝ち戦を支えた縁起のいい寿司として、江戸時代の料理書『名飯部類』に記述が残されています。



京阪の寿司にはその他、エブナの替わりに小鯛を使った「雀寿司」
(小鯛の腹に寿司飯を詰めて、ヒレがピンと張ったところが雀の飛ぶ様によく似ていることから付けられた名前)、
大阪湾に群生していた鱧の照焼きを押寿司にした「鱧寿司」、
同じく大阪湾の穴子をネタに使った「穴子寿司」、
薄く切った魚肉などを飯の上にのせた「柿(こけら)寿司」などがあげられます。

冒頭で述べた『守貞謾稿』には、「京都、大阪、江戸の三都で寿司といえば箱寿司だったが、
いつの間にか江戸の寿司は握りになった」と記されています。

最近では関西でも江戸前の握り寿司が盛んに食べられていますが、
「関東大震災(1923年)で商売ができなくなった江戸の寿司職人が、
大阪、神戸、京都にやってきて店を開いたことで、
関西にも江戸前流の握り寿司が広まってきた」と酒井さんは説明します。

そして第二次世界大戦直後、厳しい食料統制で寿司店は表立って営業ができなくなり、
東京では寿司店の組合の有志が交渉に立ち上がって営業を認めさせました。
関西をはじめ日本全国でもこれに習い、握寿司が各地に広まっていったといわれています。

手の内でにぎって瞬間的に食べる江戸前寿司に対して、魚介を材料に工夫を重ね、
時間を経ても風味の変わらない大阪寿司の魅力は、食道楽大阪を代表する食文化の一つではないでしょうか。