- vol.3
- 2015.3.27
- 新しい大阪湾づくり
-
“お鯛さん”から知る大阪の魚食文化
-
第3回 魚市場の長老に聞く
-
「方四寸(約12cm)ほどの箱に酢と塩を合わせた寿司飯を箱半分ほどの深さに敷き、醤油で煮た椎茸を細かく刻んで納め、さらに寿司飯を乗せ、最後に薄切りにした卵焼き、鯛の刺身、あわびを置いて12等分に切る」江戸後期の風俗を説明した書物『守貞謾稿(もりさだまんこう)』より、京阪の箱寿司に関する記述の要約。
-
桜の季節の贈り物は
『お鯛さん!!』1580年代(安土桃山時代)といえば、豊臣秀吉が大阪城を築いて町づくりをはじめた時期。この頃から大阪人はマダイの旬を「魚島季節(うおじまどき)」(立春から数えて八十八夜を中心にした前後約1カ月)と呼ぶようになりました。
大阪・船場の商家では、日ごろお世話になっているお得意さんや近隣の家に「魚島季節のご挨拶」として黒い漆塗りの箱に笹や松葉を敷いたマダイを届ける風習が、江戸時代から太平洋戦争前の統制経済に入る頃までありました。
旬のマダイは桜の季節とも重なり「桜鯛」と呼ばれます。この季節には、番頭さんから女中さんまで店中の人たちが、時期によって数回、店主と共にマダイを食べる贅沢な機会もありました。
もし今、活きのいい鯛を丸々一匹いただいたら、どんな風に料理しましょう。まずは「刺身」、余ったら酢で締めて「きずし」に、頭や骨は「潮汁(うしおじる)」、残りは「煮付け」にしていただく…、大阪らしい食卓の風景が浮かびます。
魚島季節の桜鯛を届ける御寮人(ごりょうにん)さんと丁稚(でっち)
出典:『上方』77号(昭和12) 長谷川小信 筆桜鯛は
どこに居る?大阪湾周辺のマダイの分布さて、大阪湾周辺の桜鯛は、どのあたりに生息しているのでしょう。
晩秋、海水温が14度以下になると大阪湾周辺のマダイは、
浅い場所から水温が下がりにくい深い場所や暖かい南の方へ移動し、
明石・友ヶ島周辺、沼島周辺で越冬するもの、
紀伊水道の沼島(ぬしま)周辺からもっと南に移動するものもあります。
翌春の魚島季節になると越冬していたマダイは、
暖流に乗って、紀伊水道、友ヶ島水道を通り、
大阪湾から明石海峡に入るもの、鳴門海峡から播磨灘に入るものなど、
産卵のために群れを成して漁場に戻ってきます。
本来マダイは、海峡部などの潮通しの良い岩礁にすむ魚ですが、
エサを求めて藻場や瀬(砂山)に来ることもあります。
稚魚は動物性プランクトンを食べて育ち、
成魚になると海底にすむイカナゴ、タコ、エビ、カニ、貝類などを探して食べています。
大阪湾での主な漁場は、江戸時代の中頃までは西宮の前浜や淡路島東部の海域でしたが、
需要が追いつかなくなり、明石海峡の西側にある鹿の瀬(しかのせ)漁場が開拓され、
そこで捕れたマダイを大阪へ輸送するようになりました。
鹿の瀬から沖の瀬にかけての明石海峡周辺は、今も「明石もん」と呼ばれるマダイの貴重な漁場です。
マダイ分布図作成・資料協力:大阪府立環境農林水産総合研究所
“活け〆”の技
「大阪人は、”活り気(いかりけ)”の ある刺身を好む」と、酒井さんは言います。
これぞ、なにわの魚食文化
”活り気”とは、白身の刺身を食べる時に感じる、身が固くなく、かといって柔らかすぎない歯ごたえです。活け〆(いけじめ)をしてすぐの鯛は身が固くて旨みも少ないのです。締めてから10~15時間の間に食べると味が熟成して、一番おいしいとされています。それは、鯛の旨みのもとである動物性タンパク質のイノシン酸がこの間に発生するからで、15時間を経過すると、その旨みも歯ごたえもだんだん失われていきます。
少々残酷かもしれませんが、自然死した魚に商品価値はありません。活きのいい魚は、活きのいい状態で締めてこそ、おいしくいただくことができるのです。マダイの締め方は、鋭利な包丁か手カギで目玉の後ろにある頭部の急所(延髄)を1回で締めます。これを「手カギの一本〆」といい、このあと尾のつけ根から血抜きします。
古くから継承されてきたマダイの活け〆方法は、なにわの魚食文化を示す象徴的な技といえるでしょう。
次ページへ
手間をかけて“マダイの旨み”を運ぶ知恵
大阪湾・瀬戸内海という好漁場に恵まれた大阪は、魚のおいしい街です。
春は桜鯛(さくらだい)、夏は鱧(はも)、秋から冬は河豚(ふぐ)……。
一年を通して活きのいい白身魚が食べられます。
つやつやした紅色のマダイは今ではすっかり高級魚ですが、
古くから「お鯛さん」と親しまれ、大阪人が愛してやまない魚です。
それは、豊臣秀吉の時代から伝承されてきた、
大阪ならではの活きた魚の流通の工夫や知恵、技術があったから。
長年に渡り、大阪市中央卸売市場本場で魚の流通や魚食文化の歴史を研究されている
酒井亮介さんに、マダイの話題を中心に大阪の魚食文化を聞きました。